[エッセイ]
神様の視線
/誠心誠意を込めた足跡/
神様のコーチを絶えず受けながら
最善を尽くして誠心誠意をもって生きなければならない。
『韓国で、トラがどこにいるのよ?動物園なら見られるけどさ~!!』
見た人は言う。
『今でもトラはいるよ!!』
『御姿を現していたのは昔の話だよ~、今は神様の啓示が途切れた!!』
神様に会う人は言う。
『今も神様は様々に私達に現れ話される!』
小さい時から山奥で生まれ育ってきた私は、オオカミの群れを見ながら暮らしたし、大人達からトラの話もしばしば聞きながら育った。
だから、トラが一体どこにいるんだと話す人を見ると、『見たことがないからそう言うんだ!!』と考えるようになった。
『神様が一体どこにいるっていうの?』
『神様が今でも御言葉をくださると思う? 聖書に書かれた時にだけ現れ話されて、それを適用して生きるんだよ~』
そのような心で神様に接する人に、御自身を現される訳が無い。
今この時も、神様にお会いしようと切実に慕い、清く誠心誠意を込めて、毎瞬間神様を呼んで仕えて生きる人に神様は現れ話されて、共にされるのではないだろうか!
真実に求めれば、そのような道に導かれるのではないだろうか!
一日を振り返りながら、暫し恐ろしい気持ちになった。
自分の気分に従って適度にやる分だけやって、世の中とも適度に妥協して生きる自分を発見しながら、このような人生達を、頬杖をついて注意深く見守られる神様の視線が感じられた。
私が生きていく瞬間瞬間が集まって一つの道となり、一つしかない自分の人生の実が作られ、それによって永遠な道までもが左右されることを考える時、完全な神様のコーチを絶えず受けながら、最善を尽くして誠心誠意をもって生きなければならないという決心を改めてするようになった。