BON局長がお届けする3文(もん)コラム!3文くらいの安っぽい文章の実力ですが・・・世の中の言葉で解いた主日の御言葉をアップします。
地上天国、人類の理想郷
「その日」から
私は「自分の思い通りに」生きることにした。
まさに「主の頭となって生きる人生」こそが、天地創造以来、
稀に見られる新しい人類の姿ではないかと考えます。
個性体で絶対価値を育てていく「成長」
生まれたばかりの赤ちゃんたちは、似たり寄ったりな見た目をしているので、親だとしても一目で見分けることは正直難しいです。新生児が、「成長」しながら見た目が変わってくるように、その「霊魂」も変わってくるのだと思われます。互いに違う面で、違う出来事と経験を通して喜び、感激し、感謝しながら生を充満に満たしていく過程を通して、それぞれ違った「人生(霊魂)」へと成長していくのです。
この過程は、「重複により代替することのできない」絶対価値の個別的な個性体に成長していく過程です。
鄭明析牧師は、「全能なる神様が、人間を個性で創造された。」とおっしゃいました。互いに違った構成要素によって満たされた人間たちは、それぞれ「感じること、考えること、願うこと、希望すること、追求すること」が違っているのです。
人によって完全に違うもの。これが真に神秘的な創造原理であり、それと同時に、驚くべき祝福なのです。自分と同じ人々だけが生きる世界、少し考えるだけでも「地獄」と大きく違わないことでしょう。
自分の思い通りに生きるということ
だから私は、「自分の思い通りに生きたい」と決心したのです。鄭明析牧師は、これを「個性の王として生きていくこと」と表現されました。しかし、これは文字通り私の思い通りに生きる「放縦」とは厳密に区分されなければなりません。
成長できていない人(充満でない人生)が、自分の思い通りに生きるならばそれは「放縦」です。
「論語」をみると、孔子は三十歳で学問の基礎を確立し(而立)、四十を過ぎて無駄な事に心を奪われ惑わされず(不惑)、五十の歳で天命を知り(知天命)、六十で他人のいかなる言葉も耳に障ることがなくなり(耳順)、人生七十年に至って自分の思い通りにしても法を逸することはなかった(「従心」、従心所欲、不踰矩)といいます。
このような「従心」の境地を、鄭明析牧師は「主が私の頭」になられた状態だと定義されました。人生七十年を、別の言葉で「古稀(古希)」といいます。「古来より稀なこと(古来稀)」という意味に由来していますが、まさに「主の頭となって生きる人生」こそが、天地創造以来、稀に見られる新しい人類の姿ではないかと考えます。
いかなる言葉や行動も、天理に逆らわない人々。
主が頭となって(祭司)、自分の思い通りに生きる「王」。
「王のような祭司長」たちが、「千年の間、王として支配するだろう」と預言された御言葉が思い浮かびます。